2015年6月30日火曜日

「トカトントン」 太宰治

 最後の「拝診」の文面が分かりにくいが、これは話し手の言うように「無学無思想の男」が書いたものであるから、文面通りに受け取ってはいけない。

文面通りに受け取ると、「周知が認めるように、君は最後の土壇場で醜態を晒すのを避けている。避けずに勇気をもって臨め。魂を殺しえぬ人間を懼れずに、身と魂を滅ぼし得るキリストをおそれよ」と言っている。結局、神を畏れ、神を信ずればトカトントンは消えると言っている。しかし、神を信ずればトカトントンが消えるとも思われない。だからこの文面はまともにとってはいけない。 

では何を意味するか。答えは「私」の手紙の最後にある。「自殺を考へ、トカトントン」とある。太宰は翌年自殺するが、「トカトントン」を書いていた時に自殺をすべきかどうか、自殺する勇気がない不甲斐なさを嘆いていたと思われる。だから、「拝復」を書いた太宰自身は「身を殺して」とか「身を滅ぼす」などの聖書の言葉を引用して、「身を滅ぼせば」トカトントンが消えると暗示し、自殺できないでいる自分自身の勇気のなさを自虐的に自嘲している。「死ねばトカトントンは治るのに、勇気がない」と言っているのだ。「醜態」とは自殺をした後の自分の哀れな姿だ。

「皮膚と心」 太宰治

女性の肌に吹き出物が出て、それがますますひどくなるが、医者へ行って治る話。

短編の中に「ボヴァリー夫人」のエンマが登場し、もしエンマの肌に吹き出物ができていたらロドルフの誘惑を断っただろうと書いている。これは何を意味するか。写実主義とロマン主義の正面衝突を描いている。ロマンな心を持っている主人公が現実(吹き出物)を見てもだえるのである。

タイトルの「皮膚」は写実・現実主義の吹き出物を意味し、「心」はロマン主義を意味している。