2014年6月27日金曜日

網走まで 志賀直哉

子連れの女性の動作が事細かに描かれており、映像を見るような筆使いが見事。母親の気苦労が伝わって来る。エンディングが唐突である。(葉書きのことは、最後に出てくるから、何の葉書か読者はわからない)しかし、妙に余韻が残る。こういう終わり方をしても良いのだ。
芥川の「蜜柑」は完成度が高いが、その分完成されすぎ。「網走まで」は中途半端な終わり方だが、芥川と同じくらいインパクトがある。

 

小僧の神様 志賀直哉

タイトルが良い。読者をひきつける。仙吉も仙人と結びつければいい命名だ
小僧とAの心理描写が巧い
章分けが良い。

最後に問題あり。「ここで筆を置く事にする」から始まる段落は作者の意見がいきなり出て、通常の小説には見られないエンディングとなっているが、こういう終わり方もOKなのか。志賀直哉だから許されるのか。第5章で「彼は考え出鱈目の番地と出鱈目の名を書いて渡した」とあるが、これは何のために作者は入れたのか。伏線として入れたとすれば、この伏線に対する係り結びがなければならない。ところが結びをはぐらかしているが。この点が宙ぶらりんである。伏線でなければ、住所を書かせる場面は入れる必要がない。

2014年6月25日水曜日

THE WILD NET Eudora Welty

Although I failed to grasp the theme of this fiction, I enjoyed reading it. Some of the key points are:

1. The beautiful and vivid description of the scenery
2. All the characters are well described so that the reader can grasp each individual.
3. A pleasant atmosphere (not pessimistic, even William Wallace) despite the failure to drag Hazel’s body.
4. The writer did not describe William’s disappointment clearly. Even he seems to be enjoying fishing.
5. What happened at the beginning? How could she hide from William? Why didn’t she stop him from asking help?
6. The ending is impressive: “And after a few minutes she took him by the hand and led him into the house, smiling as if she were smiling down on him.”

2014年6月8日日曜日

藤十郎の恋 菊池寛

文章、心情描写、情景描写、展開全て巧い。特に出だしの文章が素晴らしい。
「都では、春の匂いが凡ての物を包んでいた。ついこの間までは、頂上の処だけは、斑に消え残っていた叡山の雪が、春の柔い光の下に解けてしまって、跡には薄紫をおびた黄色の山肌が、くっきりと大空に浮かんでいる。その空の色までが、冬の間に腐ったような灰色を、洗い流して日一日緑に冴えて行った。」
なぜ美しく響くのか。色彩だろう。雪、薄紫、黄色、空、灰色、緑と続いている。次の段落でも「柳、芽、菫、蓮華、藍色」と色彩的に鮮やかである。
藤十郎の心理描写、とくに茂右衛門の役柄をどう出すかで苦悩するところがうまい。展開でも、お梶が「絹行燈の灯をフッと」消すに至るまでの話の持っていきようがうまい。結末で、お梶が縊死し、それまでもが藤十郎の芸を冴えるものにしたというのも良い。
しかし、納得できない点がいろいろある。
①まず、お梶を口説いている時に感知できるのはお梶の心情表現であり、茂右衛門が人妻と不義を犯す、また犯した後の心情まではわからないはずである。藤十郎が求めたのは茂右衛門の心の動きであり、これは100回お梶を芝居的に口説いても、得られぬ筈である。もし得るとするなら、実際お梶と不義をしなければ得られるものではない。
②事実関係を菊池寛は掴んでいない。近松の「大経師昔暦」では、おさんと茂右衛門は不義をしていない。偶然闇の女中部屋で二人が出くわしたところを大経師に発見され、不義と誤解されるのである。また、最後は磔にならず、ある僧侶の頼みで許されるのである。二人が不義を犯すのは井原西鶴の「好色五人女」であるから、菊池寛は事実関係を知ってか知らずか無視している。歌舞伎フアンがこの話を読んだらすぐ変だと思うであろう。
③京童は、藤十郎がいかにして茂右衛門の心情を会得したかを話しているが、誰から聞いたのか。このことを知っているのは藤十郎とお梶だけである。藤十郎が自らした詐欺まがいの行為を人に言うだろうか。黙っていて名人芸を舞台で見せる方が株が上がる。だから、わざわざいうわけがない。この点不自然である。
④菊池寛は、時代考証を無視している。出だしに、元禄の年号が十余りを重ねたとあるから、おそらく元禄元年(1687年)プラス十余年のころの話である。となると近松の「大経師昔暦」が初演されたのは1715年(元禄ではなく、正徳時代)であるから、年代的にも食い違っている。これも菊池寛は知ってか知らずか時代を無視している。おそらく「正徳」より、「元禄」の方が読者受けするからそうしたのかも。しかし、これはいだだけない

ある恋の話 菊池寛

祖母は、歌舞伎役者とその役者が演ずる舞台の登場人物を分けて捉えているが、実際こんなことがあろうか。白塗りの化粧を取った素顔の役者が醜くて、その男が演ずる人物に惚れるというのはあまりにも極端に話を仕立てている。着想がうまいが、これは一つの人物の二面性を別人として描いた幻想怪奇ものではないか。江戸川乱歩の不思議な物語に似ている