2014年1月25日土曜日

私刑の夏 五木寛之


エンタメ作品として、最初から最後まで読者をひきつける。その力は出だしの「どこかで銃声がした」と、次の「20分前よ」によって、読者は一体何が起こるのかという気になる。H市からトラック部隊で38度線まで逃げていくという設定も「無事に逃げおせるか」という不安を駆り立てる。 意外な結末もインパクトがあり、リンチが行われるシーンはなぜリンチかを読者に納得させている。 主人公結城の心理描写、星賀とスミルノフ大尉の人物描写もうまい。トラックで輸送されていくシーンの描写もビビッドだ。 敗戦後、満州からの引き上げ者の苦悩、悲惨さがわかる作品。

GIブルース 五木寛之

話のつくり方が上手い。読者を「それから、どうなるのか」と思わせ、一気に最後のページまで読ませる。 その仕掛けは出だしにある。すなわち「もしジェームスが現れなければ、どうなるか」――この一言で読者を釣っている。読者はジェームスが時間に間に合って現れるのだろうかと気になり、物語に引きずられていく。現れると今度は、「BBと上手く演奏できるか」という不安にさせておいて、最後に大尉を登場させ、読者をハラハラさせる。   どんでん返しもうまい。BBとの共演は「これが最初で最後になる」。すなわち前線に送られるという結末もインパクトがある。 北見の心理描写、黒川の人物描写、ジャズ演奏シーン描写もうまい。最後にジェームスの演奏を最高に褒め、戦線に送られる運命とのギャップのつくり方もうまい。 最後の場面で「そして、かすかに<去りし男>のテーマが響いてきた」の「去りし男」はうまい選曲名だ。ジェームスに引っ掛けてある。 回想シーンになることを丁寧に読者に知らしめているのも良い。 特に粗はない作品。原稿用紙約75枚、まとまった話が書けている。

2014年1月3日金曜日

湖畔

 全体的にひとつのスリラー風な作品となっている。最終ページで「黒木が谷底に落ちていったのを、花房はまだ知らなかった」というくだりは読者にショックを与え、読後感は悪いが、インパクトを与えている点ではうまい終わり方だ。

また、読者を最後まで引っ張っていく仕掛けがしてあり、読者はついつい最後まで読んでしまう。

しかし、その仕掛けの功罪は……

① 出だしの<……いつ死んでもいいな>という文句。読者はこのセリフにどきりとさせられ、なぜ死ぬのか、どう死ぬのかを知りたくなる。

② 娘の悠子が結婚したため気落ちしたことが書いてあるが、このことが自殺の原因ではない。それは本文中に「しかし、いつ死んでもいいな、と折りに触れては呟くようになったのは、必ずしも悠子が結婚したのが機縁ではない」と言っている。

ここで、読者は他に動機があるのかと思い次に読み進む。

③「戯れに、風がくれば消えてゆく砂の上の文字」という文句を読んで、読者はなんとなく死んでいく動機のようなものを嗅ぎ取るが、これは曖昧なセリフで、自殺の決定的な動機を述べているわけではないと知る。

④「長い戦争が終わった時、黒木は生きたい、生きなければならぬとも思わなかった」と書いてあるが、この思いも死ぬ動機にはなりえない。

 ⑤停年をむかえて振り返ってみると自分は「つまり中途半端だったということであろう」と言っているが、これも自殺の動機について語っているのではない。

⑥ゴンドラに観光客と一緒に乗っているとき黒木は<落ちてくれればいい。……>と言っているが、なぜ「落ちてくれればいい」のか読者はまだわからない。

⑦花房が「やはり精神的なショックに耐えかねて」とか「先生は御自分の死の場所を求めているのではないか」と言っているが、なぜ、どういう精神的ショックを受けたか、なぜ死の場所を求めているのかが分からないので読者はこのあたりでイライラしながら、さらに読み進むことになる。

⑧花房の話の終わり辺りに「先生は既に投身されてしまったのではないかという不安が」と言っているが、読者はここでさらに焦ってくる。黒木は本当に死ぬのだろうかと。しかし、なぜ死ぬのかの説明はまだない。

黒木は結局ゴンドラから身投げして死んでしまうが、作者は最後まで黒木が自殺するに至った動機を明確に読者に提示していない。これでは、読者をペテンにかけたようで、プロの作家がすることではない。もっとも、動機を曖昧にして最後まで明かさないという逆手法もあるというのなら話は別だが。私はこういう手法は卑怯だと思う。だいたい、ゴンドラには車掌が乗っているし、窓は誤って落ちないように厳重になっているので、黒木がゴンドラから落下したというのはリアリティーがない。

もう一点、作者の癖で、主人公にやたらと過去に体験した事柄を引用させながら話を展開させている。例えば。「学生の花房に、黒木は語ったことがある」と言って時間を過去に戻す。また「その戯れの文字の中で、書いたことがある」と言って以前に書いた文章を引用する。「束の間の幻影」でもこの手法が何回も出てきたが、鼻についた。

束の間の幻影

「束の間の幻影」というタイトルにこの短編が凝縮されている。すなわち、全ての場面が最後の文、「木原は濃い紫のセーターと並んで歩き出した」の伏線になっている。

伏線1.出だしのススキの風景描写は読者を幻影的世界にいざなう舞台になっている。

伏線2.宮間佳子は江里子自身で、沼崎は木原自身の投影になっている。死んだ江里子にもう一度会いたいという木原の思いが、佳子を沼崎に会わせたいという思いと重なっている。名前の「宮間」の「間(あいだ)」は佳子が江里子と木山の間(あいだ)を取り持つという意味を暗示している。佳子は「木原さんはいつからか、わたしの胸の中に「まぼろしのひと(すなわち江里子)」をつくりあげてしまった積りらしいわね」と木原の思いを代弁している。

伏線3.名誉教授K先生はイギリス詩人キイツと唐代の詩人李賀を比較研究しているが。キイツと李賀に共通する作風は幻想世界、不確かな世界である。キイツは「偉大な文学者たらしめるものは不確実なものや未解決なものを受容する能力だ」と言っている。また、李賀は「半ば幻想世界に生きた詩人で、幻想世界は現実よりも親しいものであった」らしい。(以上ウキペディアから)作者はキイツと李賀を登場させ、幻影世界の伏線としている。

伏線4.K先生が「夕方7時に来てくれ」と、7時に時間を指定しているのは幻影的な時間帯、すなわち秋の6時半頃で、本文の「光の淡い星が増えて……原には夕明かりがまだ漂っていた。D岳が早くも黒の色だ」という夕暮れどきを作者が設定したかったから。

伏線5.江里子が着ていたセーターの色は濃い紫で、木原はそのセーターを沼崎から受け取っている。ススキの原に迎えに来た女性も濃い紫のセーターを着ていた。

難点

① 単純な話(着ていたセーターが同じ色であったから、死んだ恋人と、迎えに来た女性とを混同した)をなぜこうも回りくどく、だらだらと書いているのかわからない。こういう回りくどい作品が日本の文学愛好家に受けるからかもしれないが、私の肌には合わなかった。

② 時間系列が分かりにくい。場面が何度も昔に戻ったり、現在に帰ったりしているから。例えば「8年前のことである」「木原自身も50を過ぎている」「十数年前のことになる」「遠い昔のことになったが」「ある秋の夕方」「10年もそんな状態が続いて」「こんなことを喋った記憶が木原にはある」「5年ぶりでお目にかかる」など。

③ ほとんどの登場人物の年齢がわからないのでイメージを浮かべにくい。