2017年7月24日月曜日

Blumfeld, an Elderly Bachelor Franz Kafka

  This is a very funny story. It describes Blumfeld’s extreme annoyance caused by the two incontrollable balls and the trouble making assistants. The roll of the balls and that of the assistants are similar. Blumfled cannot control them. Or rather he is controlled by them. They constantly give troubles to him.
   Kafka’s writing is skillful: 1. The description is vivid. You can visualize the scnens. 2. Kafka uses such tribial things as balls and a bloom so well that the reader is instantly involved in the story.
   I don’t know the theme of the story, but actually our world is surrounded by tribial but uncontrollable things.

2017年7月23日日曜日

イタリアの歌 川端康成

 日本的短編の典型的作品。プロットがなくエピソードが並列に並べられている。  
 出だしの火事の場面の激しさに対して後半はそれに見合うだけの話の展開がなされていない。4人の少女や材木問屋や陶器業者の話が結末で収斂されていない。咲子が鳥居と結婚するという話も唐突であり、最後の最後に出てくる。なんの伏線もないので戸惑う。最後に咲子は「涙が流れるにつれて、聲は明るく高まってきた」は何と解釈すればいいのか。先生の死を悼みながらも強く生きていく姿勢を描いているのか。また「家なき子」の「イタリアの歌」は調べてもよく分からない。テーマとどうかかわっているのか。
 川端流に言えば「プロットは人為的でいやらしいもの。プロットの明確過ぎるのは作品の味を殺す。曖昧が必要」らしい。また、日本の小説は「筋を組み立てずに並べていく、同じ平面に次々といろいろな事件が浮かびあがるが、全体として大構成にならない」と言っている。この点から考えると、「イタリアの歌」もいいのかもしれない。

禽獣  川端康成

 小説の楽しみはプロットで、次はどうなるか、次はどうなるかと読み進み、予想が覆され覆されて、結末に進み、最後に昇華するところにその醍醐味がある。この点から考えると、「禽獣」はそういうプロットがない。ただ、主人公が小鳥や犬やミミズクやモズを飼っていてそれが死んだとか生きていたとかいうエピソードの羅列をしているだけ。言わば、随筆、日記、身辺雑記であり、回想録と言ってもいい。面白い雑記ならいいが、小鳥が死んだ生きたなどを事細かに書かれても自分とは関係のないことで少しも面白くない。テーマにしてもよく分からない。動物の死を悼むことがテーマではないようだ。千花子の話にしても感情移入していけない。  川端が「小説の研究」(昭和28.要書房)で言っているように、「この落ちがあるといふ性格は西洋の短編では切りはなされぬ特色となっている」が日本では「短編に落ちをつけることは一番嫌われることである」。こう考えると、「禽獣」も日本的短編としてはいいのかもしれないが、私の好みには合わない。

川端康成 明治32-昭和47 ガス自殺    
一歳 父没。 2歳 母没。七歳 祖母没、10歳姉没、14歳で盲目の祖父没

2017年7月9日日曜日

ロング・グッドバイ テネシー・ウリリアムズ

主人公ジョーの精神的不安定をノスタルジー的に描いている。音響効果、舞台設定(隣の寝室、電話機)効果的。

ジョーが生まれてから過ごしたアパートの部屋の家具一つ一つが過去の思い出を語っている。その思い出に浸るジョー: その思い出が母と妹の霊が舞台に現れることによって鮮明に当時のことがよみがえる。また親友シルヴァがジョーの苦悩を浮き彫りにしている。

1.過度に神経質で妹のマイラのことを心配していた母親が薬物で自殺した思い出。母親は「ガラスの動物園」の娘の将来を過度に心配するアマンだとよく似ている。

2.母が生きていた時はちゃんとした娘だったが、死んでからは身持ちを崩した淫売のようになってしまったマイラ 親友のシルヴァの役割は、ジョーの分身的役割。ウィリアムがホモであったことも影響している。

「ジキル博士とハイド」ではジキルは善、ハイドは悪として描かれているが、この作品ではシルヴァは現在を生きる現実的男、ジョーは過去に生き、過去にしがみついて生きる感傷的な男として描かれている。

運送屋が家具を運び出しているのは思い出が一つ一つ消えていく象徴としてあらわしている。だから、翻訳で322ページにもんだいがあり。 あんたがいなくなる前にこの家がつぶれちゃうわーー何もかも食いつぶされ、なくなっちゃうわ! 原文では They’ll move every stick furniture out of this place before they do you! とある。だから あんたがいなくなる前にこの家がつぶれちゃうわーー何もかも食いつぶされ、全ての家具がなくなっちゃうわ! とすべき。

あるマドンナの肖像 テネシー・ウイリアムズ

悲哀を感ずる戯曲。ウイリアムズの作品には主人公の精神不安定を描いているものが多い(「欲望と言う名の電車」「熱いトタン屋根の猫」「ガラスの動物園」など)。ウイリアムズの姉ローズが精神病であり、それがモデルになっている。
父親はアル中、母は過度の神経質。本人は少年時代ジフテリアにかかり虚弱体質。祖父は牧師。

ミスコリンズは、ロバートに捨てられ気が狂い、妄想で、ロバートがイヴリンを捨ててやっと自分の所に戻り、自分は妊娠したと思う。最後は精神病院に収容される。

主人公のミスコリンズは「欲望と言う名の電車」のブランチ夫人とよく似ている。コリンズもブランチも南部のレディーでプライドが高く上品ぶっているオールドミスで精神不安定。両方とも暗い部屋が好きで明るさを嫌った。最後は医師と看護婦に精神病院に収容される。

p. 230 I’m Forever Blowing Bubblesを作者がここで使った理由は、歌詞でも分かるように夢を追い求めたミス・コリンズを象徴している。

I'm forever blowing bubbles
Pretty bubbles in the air
They fly so high, nearly reach the sky
Then like my dreams they fade and die
Fortune's always hiding
I've looked everywhere

私はシャボン玉を吹いている
きれいなシャボン玉を
高く高く天まであがって、夢は色あせ、壊れてしまう
私は幸運をあちこち探したけれど
幸運はいつもどこかに隠れてしまっている
p238
コリンズがエピスコパール教会の歴史を語っているが、全く逆のことを言わせている。
エピスコパール教会は、ヘンリー八世が1534年に創設した英国国教会の米国支部で、コリンズが言う「カソリック教会の英国支部を英国に設立した」のではない。