2009年11月26日木曜日

志賀直哉 「クローディアスの日記」

 「ハムレット」で、兄を殺して王になり、兄の妻を娶った男の日記。始めは、ハムレットと話をして自分を理解してもらおうと考えているが、毒殺劇を見てから、自分は兄を毒殺していないのに、劇を見て驚き、その顔が毒殺したとハムレットが思うような顔つきになってしまい、ハムレットのこざかしい細工に腹を立て、ハムレットを憎むようになる。  シェクスピア戯曲の主要登場人物の日記という発想は素晴らしい。ところどころ、「ハムレット」のセリフが出てきて真実味を持たせている。しかし、志賀直哉はクローディアスの兄の死亡についてその原因を描かずに逃げている。フィクションであるから、身の潔白を証明するようなエピソードを書くべきで、ただある夜「兄は吠えるようなうめきを続けている」で終わっては読者を生殺しにする。  天下周知のフィクションを土台にして、フィクションに即したさらなるフィクションと言うのは面白い。ただ、イギリス人(この場合はデンマーク人)の文化・思考・傾向に適合していないと本物らしいフィクションにならない。この点は太宰治の「新ハムレット」にも言える。  「桃太郎の日記」「浦島太郎の日記」芭蕉が詠んだ古池の「蛙の日記」などヒューモラスなタッチで書けたら面白い。 考察: 「ハムレット」の中で、クローディアスは「この罪の悪臭、天へも臭うぞ。人類最初の罪、兄殺しの大罪! どうしていまさら祈れようか」(福田訳)と独白しているように、クローディアスが王を殺したことは明白に読者に伝わるようにシエクスピアは描いている。これをクローディアスは王を殺していないんだとする志賀直哉の「クローディアスの日記」は前提に無理がある。

1 件のコメント:

  1. 芥川流のあざといまでの「創作」=ハムレットによる悲劇の創作と志賀は考えており、先王の父がクローディアスと母のたくらみで殺害されたとする狂気こそが避けられるべきものであると。クローディアスは自然に無作為に生きていることを「日記」で語らせている。私には志賀文学で、これのみが、逆説的ではあるが、「創作的」であり、芥川的であり、読むに値する彼のまれな
    作品であると思います。

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