2012年1月23日月曜日
田久保英夫 「髪の環」
作品作りがうまい。読者の読書中の心理をそれとなく操って、ある方向に誘導し、最後にその期待をドンと浄化させている。
最初の出だしから、男性読者の欲望をくすぐる設定にしてある。
例:若い女の体臭、ブルマー、桃色の肌の裸女が棘の生えた卵に乗る、自分も「罪深い」、父の「罪」も「悪」も流れている、皆子へのよくわからなぬ関心、髪の毛などは女の肉体の美しい属性、暗がりで脚をつかみ、腹をおさえ、手や首を固定して、やったのだろうか。腰のへんから足首まで眼に入る、娘らしく肉づく、言葉もなく見とれた、髪をつかんでざっくりと切った、名状できない感情に包まれた。
読んでいくうちに読者を洗脳していく手法が用いられている。ヒッチコックの映画のコマとコマの間にジュースの写真を入れこんでいって、観客にのどが渇いたと思わせる趣向。いわゆる料理の隠し味だ。
「夢まわし」を詳しく説明しているが、鋏みを最後の場面で手元にあるようにするための巧みな設定だと思った。
描写が細かく、映像を見ているようだ。
内田百閒 「すきま風」
すきま風を二人の男とひとりの若い女に擬人化し、その3人ずれが家の外の笹の葉のサラサラする音が止んだかと思うと、いつのまにやら戸締まりをした部屋に入り、部屋を物色し(全てを抵当に入れる)、別の部屋に入り込み、出ていく。後にはまた笹の葉の音がするというなんとも不可思議な話。
戸締まりをして、横になっているときの妄想を具象化した。白い女や憎い顔など、すきま風の特徴を表している
2012年1月9日月曜日
DH ローレンス 「木馬の勝ち馬」
1.この短編は寓話として読みました。少年ポールは、母親から「お父さんは運がない」とか「もっとお金を」と言う言葉を聞いて、母親の嬉しい顔を見たいがため、木馬を駆り立て勝ち馬を当てるという運の強い子になりますが、母親は金が入っても「もっとお金を」と求める。ついにポールはダービーで勝ち馬を当て「僕には運があるんだよ」と言いますが、勝ち馬と自分の命とが引き換えになってしまいます。
母親の期待が大きいと、期待に沿おうとする子供はその負担に耐え切れずに生命をも犠牲にしてしまうという教訓話を描いたのではないかと思います。
2.以下のような解釈をする批評家がいましたので、参考までに付け加えておきます。
ピュリッツアー賞受賞者でアメリカ人のガードンズという詩人は「木馬の勝ち馬」に関して次のように言っています。
すなわち、399ページの「汚れた運(ラッカー)」と「汚れた銭(ルーカー)」は、原文ではluckとlucreで、これはloveという言葉に似ている。ポールは、運が強くなって父親にとって代わりたいと願うが、これはエディプスコンプレックスの現れである。
3.事典によると、エディプスコンプレックスとは、母親を手に入れようと思い、また父親に対して強い対抗心を抱くという、幼児期においておこる現実の状況に対するアンビバレントな心理の抑圧のことをいう。フロイトは、この心理状況の中にみられる母親に対する近親相姦的欲望をギリシア悲劇の一つ『オイディプス』(エディプス王)になぞらえ、エディプスコンプレックスと呼んだ。
4.「木馬の勝ち馬」の底辺にはエディプスコンプレックスがあり、単なる教訓話ではないようです。浅薄な読解力を思い知らされました。
DH ローレンス 「盲目の男」
1.「盲目の男」のテーマは、DHローレンス著「チャタレー夫人の恋人」のテーマとよく似ています。チャタレー夫人は、夫が性的不能者であることから、番人メラーズと肉体関係を結びます。そのテーマは、人間は理性(頭脳)だけで生きていくことはできない。肉体的欲求(感情)の充足も不可欠であるということです。「盲目の男」でも、頭脳と感情の微妙な関係が描かれていると思います。
2.二つの作品が同じテーマを扱っている点を指摘する前に、翻訳上のミスを指摘したいと思います。
276ページ、6行目「それは彼[モーリス]の心が(中略)のろかったからである。彼は自分のこの心ののろさにたいし、感情が鋭敏で激しかっただけに、ひどく傷つきやすかった。だからバーティーとはまったく正反対で、バーティーの方は、心が感情よりもずっと鋭く、感情はそれほど繊細ではなかった」の部分です。翻訳では、モーリスは「心がのろい」と訳されていますが、「心がのろい」という訳は変です。原文ではhis mind was slow. となっています。mindは「心」と「頭脳」の両方の意味があります。この場合、のろいのは心でなくて頭の回転です。即ち、モーリスは頭の回転がのろかったが、感情は豊かだったと、ローレンスは書いているのです。
次に、バーティーの方は「心が感情よりもずっと鋭く」と訳してありますが、「心が鋭い」という訳も変です。原文は…whose mind was much
quicker than his emotionsとあります。要するにバーティーのmindはquick(頭の回転が速かった)わけです。
だから正しい訳は「それは彼[モーリス]の頭の回転が(中略)のろかったからである。彼は自分のこの頭脳ののろさにたいし、感情が鋭敏で激しかっただけに、ひどく傷つきやすかった。だからバーティーとはまったく正反対で、バーティーの方は、頭脳明晰で感情はそれほど繊細ではなかった」となります。
3.以上のように考えると、モーリスは知的人間というより、感情の豊かな人間で、バーティーは逆に感情的というより知的人間ということになります。だから、バーティーの職業は頭の切れを要する弁護士で、「女性に肉体的に迫ることができない」性的不能者(感情を発露出来ない人)という設定にしてあると思います。
一方、モーリスは頭ではなく自分の手で触れて感触的、本能的にものを理解するタイプに設定してあります。
4.この頭脳的人間と感情的人間を結びつけているのがイザベルです。
5.最後にモーリスがバーティーの顔や身体を触りますが、触られたためバーティーの殻、即ち頭で物事を理解する姿勢が崩壊するのです。これによりバーティーは軟体動物、すなわち感情も兼ね備えた赤裸々な人間になったことを示唆していると思います。
6.最後にDH.ローレンスはホモセクシュアルであったとも、また16歳の頃数人の女の子に猛烈に言い寄られて病気になり肺炎になったと、ある文献にあります。モーリスがバーティーの肉体を触るのは著者のホモセクシュアルの現れであり、またバーティーに関して「女性たちが彼の方へ働きかけてきそうになると、彼は身を引いて彼女たちを嫌悪した」という女性嫌いは、自分の体験を書いているのかもしれません。
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