2014年7月25日金曜日

恩讐の彼方に 菊池寛

 菊池は『主題小説論』で「大自然に対しては、殆ど無力に等しく見らるるか弱い人間の双の腕で、成し遂げた大偉業の前には、恩讐などの感情は、結局暁天の星の光の如く微弱であり、無価値であることを云おうとしたのである」と記しているが、「恩讐の彼方に」という題の意味がわからない。「~の彼方に」という場合、それは「~の向こうに」という意味で、例えば「水平線の彼方に」と言えば、「水平線のもっと向こうの方に」という意味である。「恩讐(恩義とうらみ。情けと、あだ=大辞林)の彼方に」とはどういう意味になるのか。「恩讐が彼方に消える」という意味なら「恩讐は彼方に」とか「恩讐が彼方に」という題の方がわかりやすい。「恩讐の」の「の」は主格の「の」として使っているのであろうか。言い換えれば「恩讐が遥か彼方に消えていく」という意味で「の」を使っているのか。「恩讐を越えて」ならば「恩讐という感情を超越して」という意味であるから「恩讐が微弱で無価値であることをあらわすことになるのだが、「恩讐を越えて」という題ではない。わかりにくい題だ。

1.禅海和尚の実話をもとにこれだけの小説を書く手腕が素晴らしい。

2.話の展開もエンタメとしてよくできている。市九郎を極悪人に仕立てるため主人を殺すだけではなく旅人を何人も殺させている。実之助が了海と一緒に洞窟を堀る場面とか、完成してから了海が「約束の日じゃ、お斬りなされい」と言った時、実之助が涙に咽ぶ場面はよくできている。

3.了海と実之助の心理描写がうまい。

4.ただ、八幡宮の参詣者が了海の噂をして、若い時に人を殺して懺悔して諸人済度の大願を起こしたそうじゃ、と話させているが、はたして一心不乱に洞窟を掘ることのみに集中している了海が自分の過去の過ちについて赤の他人に語るだろうか。また人を殺めた身であるのに「生まれは越後の柏崎」とまで自分のことを明かすだろうか。ご都合主義だ。

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