2014年6月8日日曜日

藤十郎の恋 菊池寛

文章、心情描写、情景描写、展開全て巧い。特に出だしの文章が素晴らしい。
「都では、春の匂いが凡ての物を包んでいた。ついこの間までは、頂上の処だけは、斑に消え残っていた叡山の雪が、春の柔い光の下に解けてしまって、跡には薄紫をおびた黄色の山肌が、くっきりと大空に浮かんでいる。その空の色までが、冬の間に腐ったような灰色を、洗い流して日一日緑に冴えて行った。」
なぜ美しく響くのか。色彩だろう。雪、薄紫、黄色、空、灰色、緑と続いている。次の段落でも「柳、芽、菫、蓮華、藍色」と色彩的に鮮やかである。
藤十郎の心理描写、とくに茂右衛門の役柄をどう出すかで苦悩するところがうまい。展開でも、お梶が「絹行燈の灯をフッと」消すに至るまでの話の持っていきようがうまい。結末で、お梶が縊死し、それまでもが藤十郎の芸を冴えるものにしたというのも良い。
しかし、納得できない点がいろいろある。
①まず、お梶を口説いている時に感知できるのはお梶の心情表現であり、茂右衛門が人妻と不義を犯す、また犯した後の心情まではわからないはずである。藤十郎が求めたのは茂右衛門の心の動きであり、これは100回お梶を芝居的に口説いても、得られぬ筈である。もし得るとするなら、実際お梶と不義をしなければ得られるものではない。
②事実関係を菊池寛は掴んでいない。近松の「大経師昔暦」では、おさんと茂右衛門は不義をしていない。偶然闇の女中部屋で二人が出くわしたところを大経師に発見され、不義と誤解されるのである。また、最後は磔にならず、ある僧侶の頼みで許されるのである。二人が不義を犯すのは井原西鶴の「好色五人女」であるから、菊池寛は事実関係を知ってか知らずか無視している。歌舞伎フアンがこの話を読んだらすぐ変だと思うであろう。
③京童は、藤十郎がいかにして茂右衛門の心情を会得したかを話しているが、誰から聞いたのか。このことを知っているのは藤十郎とお梶だけである。藤十郎が自らした詐欺まがいの行為を人に言うだろうか。黙っていて名人芸を舞台で見せる方が株が上がる。だから、わざわざいうわけがない。この点不自然である。
④菊池寛は、時代考証を無視している。出だしに、元禄の年号が十余りを重ねたとあるから、おそらく元禄元年(1687年)プラス十余年のころの話である。となると近松の「大経師昔暦」が初演されたのは1715年(元禄ではなく、正徳時代)であるから、年代的にも食い違っている。これも菊池寛は知ってか知らずか時代を無視している。おそらく「正徳」より、「元禄」の方が読者受けするからそうしたのかも。しかし、これはいだだけない

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