2017年7月23日日曜日

イタリアの歌 川端康成

 日本的短編の典型的作品。プロットがなくエピソードが並列に並べられている。  
 出だしの火事の場面の激しさに対して後半はそれに見合うだけの話の展開がなされていない。4人の少女や材木問屋や陶器業者の話が結末で収斂されていない。咲子が鳥居と結婚するという話も唐突であり、最後の最後に出てくる。なんの伏線もないので戸惑う。最後に咲子は「涙が流れるにつれて、聲は明るく高まってきた」は何と解釈すればいいのか。先生の死を悼みながらも強く生きていく姿勢を描いているのか。また「家なき子」の「イタリアの歌」は調べてもよく分からない。テーマとどうかかわっているのか。
 川端流に言えば「プロットは人為的でいやらしいもの。プロットの明確過ぎるのは作品の味を殺す。曖昧が必要」らしい。また、日本の小説は「筋を組み立てずに並べていく、同じ平面に次々といろいろな事件が浮かびあがるが、全体として大構成にならない」と言っている。この点から考えると、「イタリアの歌」もいいのかもしれない。

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