2013年12月23日月曜日
逃げ道 筒井康隆
顛末がドキリとさせる話。これは悲喜劇? コンビニがある今どき、「お坊ちゃん」の食べ物が買えなくて心中する母子がいるだろうか。話に無理があるが、筒井はそのことを承知して書いているのだろう。ドキリとさせる手法はチェーホフの「ねむい」に通ずる。「簾見」という駅名が面白い。天皇が簾の奥から指図するように、秋夫は婆やに指図をする。
あれあれ、一体どうなるのだろうと思わせて、話を終わらせインパクトを与える短編のひとつの手法がつかってある。
小猫 高樹のぶ子
話作りがうまい。舞台を日本にせず、パリとチューリッヒにしてあり、国際的。
洋介は猫と一分間じゃれるが、実は子猫は京子自身で、洋介が自分を弄び、最後に捨てるという遊び人の冷たさを見て、京子は我に返りホテルを去る。16年間も待ちに待っていたのに、洋介はなんとも思ってないという悔しさもあるか。
最初の文が4行もあるのは何故か。
別れ話の時、洋介は「涙で顔を汚す」が何故洋介は何故泣くのか。また「恨みながらも」とあるが、本当に恨んでいたとは思えない。洋介は遊人でかえって別れ話で良かったのではない。
洋介は猫と一分間じゃれるが、実は子猫は京子自身で、洋介が自分を弄び、最後に捨てるという遊び人の冷たさを見て、京子は我に返りホテルを去る。16年間も待ちに待っていたのに、洋介はなんとも思ってないという悔しさもあるか。
最初の文が4行もあるのは何故か。
別れ話の時、洋介は「涙で顔を汚す」が何故洋介は何故泣くのか。また「恨みながらも」とあるが、本当に恨んでいたとは思えない。洋介は遊人でかえって別れ話で良かったのではない。
2013年12月7日土曜日
青の使者 唯川恵
話としては面白いが、うまくできすぎの話。作為的、でっち上げ的短編。活字にしてしまうと本当にあったことのように思える錯覚に陥るが、いろいろ不自然なところが多い。
1.一メートルの鯉が100匹とは、いくらなんでも多すぎる。
2.ユリがどうして容子を家の中に入れたのか。玄関払いになるのが自然であるのに。
3.なぜ容子がユリを殺したのか。動機が単に青いブラウスを着ていただけというのは、単純すぎる。読者を納得させられない。気が狂ったのかと思った。 4.殺した直後に鯉に餌をやるが、気が動転しているはず。そんな余裕はないはず。
5.容子はユリを殺してから、扶美を訪ねるが、理由が分からない。 6.扶美は容子を部屋に入れるが、玄関払いをするはず。
7.一ヶ月前に森岡は死んでいるはずだから、死体を切り刻んだのか、それにしても冷蔵庫にはいったのだろうか。腐敗しなかったのか。不自然だ。
8.「青の使者」のタイトルの意味がわからない。 全体に筋だけが先行している。
○良い点
1.金歯が餌の間から出てきたことで、読者をぞっとさせること。このトリックはうまい。
2.ユリを殺すときに爪に「めり込んでいたものさえ鯉はたいらげた」は、次に出てくる森岡ごろしの伏線として効果抜群。(「未知との遭遇」「ジョーズ」の手法)
唯川恵 1955年生まれ 「肩ごしの恋」直木賞
1.一メートルの鯉が100匹とは、いくらなんでも多すぎる。
2.ユリがどうして容子を家の中に入れたのか。玄関払いになるのが自然であるのに。
3.なぜ容子がユリを殺したのか。動機が単に青いブラウスを着ていただけというのは、単純すぎる。読者を納得させられない。気が狂ったのかと思った。 4.殺した直後に鯉に餌をやるが、気が動転しているはず。そんな余裕はないはず。
5.容子はユリを殺してから、扶美を訪ねるが、理由が分からない。 6.扶美は容子を部屋に入れるが、玄関払いをするはず。
7.一ヶ月前に森岡は死んでいるはずだから、死体を切り刻んだのか、それにしても冷蔵庫にはいったのだろうか。腐敗しなかったのか。不自然だ。
8.「青の使者」のタイトルの意味がわからない。 全体に筋だけが先行している。
○良い点
1.金歯が餌の間から出てきたことで、読者をぞっとさせること。このトリックはうまい。
2.ユリを殺すときに爪に「めり込んでいたものさえ鯉はたいらげた」は、次に出てくる森岡ごろしの伏線として効果抜群。(「未知との遭遇」「ジョーズ」の手法)
唯川恵 1955年生まれ 「肩ごしの恋」直木賞
岩 北方謙三
ハードボイルドのエンタメ短編。面白いが、やくざな探偵が堅気の青年に暴力を振るうのはいただけない。後味が悪い。
北方の文章は分かりやすく、情景が目に浮かぶように描かれている。岩礁を目指して泳ぐ二人の若者を出して、何事かと読者に思わせ、読者を本に引き込んでゆく手法はうまい。時間の経過など、タバコを吸った本数で表す工夫がある。
岩礁に向かって泳いでいた若者が、偶然目指す店のバーテンだったというのはご都合主義であるが、北方は「滑稽な話の中に、滑稽な偶然をひとつ偶然をひとつ加えたにすぎない」と言い訳をしている。
最後で、「いつか岩のない海を泳ぐかもしれない」という文は、自分がいつか暴力でやられるということを暗示しているのか。「岩」というタイトルを解説しているのだろうが、エンディングがわかりにくい。
北方謙三(きたかた けんぞう)
1947年佐賀県唐津市生まれ。中央大学法学部在学中の70年に、純文学作品「明るい街へ」で作家デビュー。10年後、「逃がれの街」「弔鐘はるかなり」などで、ハードボイルド(暴力的・反道徳的な内容を、批判を加えず、客観的で簡潔な描写で記述する手法・文体)小説の旗手として一躍人気作家になる。89年からは歴史小説を手掛け、91年「破軍の星」で柴田錬三郎賞を受賞。2006年「水滸伝」で司馬遼太郎賞を受賞。00年より直木賞の選考委員を務める
北方の文章は分かりやすく、情景が目に浮かぶように描かれている。岩礁を目指して泳ぐ二人の若者を出して、何事かと読者に思わせ、読者を本に引き込んでゆく手法はうまい。時間の経過など、タバコを吸った本数で表す工夫がある。
岩礁に向かって泳いでいた若者が、偶然目指す店のバーテンだったというのはご都合主義であるが、北方は「滑稽な話の中に、滑稽な偶然をひとつ偶然をひとつ加えたにすぎない」と言い訳をしている。
最後で、「いつか岩のない海を泳ぐかもしれない」という文は、自分がいつか暴力でやられるということを暗示しているのか。「岩」というタイトルを解説しているのだろうが、エンディングがわかりにくい。
北方謙三(きたかた けんぞう)
1947年佐賀県唐津市生まれ。中央大学法学部在学中の70年に、純文学作品「明るい街へ」で作家デビュー。10年後、「逃がれの街」「弔鐘はるかなり」などで、ハードボイルド(暴力的・反道徳的な内容を、批判を加えず、客観的で簡潔な描写で記述する手法・文体)小説の旗手として一躍人気作家になる。89年からは歴史小説を手掛け、91年「破軍の星」で柴田錬三郎賞を受賞。2006年「水滸伝」で司馬遼太郎賞を受賞。00年より直木賞の選考委員を務める
2013年11月24日日曜日
キャンプファイヤーに降る雨 Rain Flooding Your Campfire テス・ギャラガー Tess Gallagher
作品の中に出てくる小説家Mr.G(ガリバン)は、夫のレイモンド・カーバー。この作品に描かれているように、実際1981年テスの盲目の友人が訪ねてくる。二人ともこの訪問を種にして作品を仕上げた。レイモンドは「大聖堂 Cathedral」を1981年に、2年後にテスが「キャンプファイヤーに降る雨」を出す。「Mr.Gの小説ではこのようになっているが」という場面は大聖堂の小説に言及しているのだ。
「大聖堂」では、夫は、訪れてきた目の不自由なロバートをあまり歓迎していない。「来たらボーリングに連れて行ってやろうか」とか、来てからは「電車では右側の座席に座りましたか、左側でしたか」という質問をして、奥さんに嫌がられる。しかし、奥さんがうたた寝をしているとき、テレビで大聖堂に関する番組があり、夫は大聖堂がどういうものかを説明しようとするが。うまく説明できない、そこでロバートが厚紙とボールペンで大聖堂を描いてくれという。描いている夫の手にロバートは自分の手を添えて動きをなぞる。その内にロバートは夫に目を閉じてそのまま描いてくれという。夫は目を閉じて描いている時に、見えないとはどういうことかを体験する。
タイトルについて
始め、Harvest(収穫)だったが、あとからRain Flooding Your Campfireに変えた。Harvestというタイトルの意味がわからない。Rain Flooding Your Campfire
というタイトルは、華やかで、にぎわしいキャンプファイヤーという人生も妻をなくすと大雨に火が消えるように悄然とするという意味合いから付けたのであろうか。
ウッドリフさんのネクタイ Mr. Woodlilff's neckties テス・ギャラガー Tess Gallagher
1.ウッドリフ夫妻は、レイモンド・カーバーとテス・ギャラガー夫妻のこと。テスは自分たち作家夫妻の隣人の視点で描いている。
この短編の真髄は、メキシコ人が運んでくる絵画に凝縮されている。すなわち、喜び、悲しみ、運命、友情、そして別れである。喜びは夫婦でバラを育てる。悲しみは放射線治療。運命は夫婦になり最後は病気でなくなる。友情はネクタイの結び方を教え、バラの育て方を教え、芝を刈る、別れは夫人は夫を、筆者は愛妻をなくす。
心を打った文
あの時は、ともに伴侶がいた(ウッドリフ婦人には夫が、私には妻が)、何もかもあったのだ。
最初に家具などを運び出す青年、最後でウッドリフさんの息子であることがわかる。
2013年11月1日金曜日
常寒山 吉田知子
芥川賞作家であるが、この短編は読者を混乱させる。小説の大前提である視点が、故意に変えられており、一度読んだだけでは、どういう状況かを把握することは困難。それがいいという読者もいるとは思うが、邪道だ。
病床で寝ている主人公が、夫の明夫とその友達(石田、一平、姪の双子)と山登りをする。山登りの状況が事細かに描かれているので、読者は主人公が夫や友達と一緒に登山をしているのかと思う。私ははじめ、これは主人公が何年か前に皆と山登りをした時のことを回想しているのだと思って読んでいった。最後の方で、主人公が一平を蹴飛ばすところに来て、いったいどういうことだ、と思って頭が混乱した。二度目に読んだ時も、主人公が臨死体験者のように夫について山登りをしているということは気がつかなかった。
効果を狙った短編だが、読者泣かせで、罪な短編だ。この短編はいただけない。
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