2009年10月28日水曜日

太宰治 「新ハムレット」

1.「新ハムレット」は、面白くない。「ハムレット」の荒筋が頭にあるため、読んでいても純粋に荒筋を追っていけない。亡霊はいつ出るのかとか、暗殺を暴く場面があるのか、毒をぬった剣での決闘があるのか、などが頭に常に閃いて、スムーズに読むのを妨げる。  シェクスピアは亡霊のうわさを、読者を引き付ける道具としてうまく使っているが、「新ハムレット」にはそういう道具がない。相当話が進んだところで亡霊の話が出てくる。タイミングが遅く、だらけてしまう。  ハムレットが、王の言葉「俺は兄を殺していない。病死だ」と言うのを聞いて、自殺するのは不自然。また、母が死ぬのも不自然。プロットに盛り上がりが無い。  急展開な結末で、読者の期待の高ぶりも何もないうちに話が終わってしまう。感動も何もあったものではない。 王とポロニアスが仕組んだ朗読劇は面白い発想だが、話の持って行き方が唐突過ぎる。3人(ポロ、ホレーショ、ハムレット)が朗読劇をやること自体が馬鹿げている。演劇芸人にやらせる方が読者は納得する。 2.日本の典型的な私小説のように、太宰はだらだらと自分の心の内をハムレットと言う器を使ってベラベラ並びたてて、原稿料を稼いでいるのか、と思うぐらい、じれったい文が面々と、またくどくどと続く。だいたい一人が話す長さが長すぎて、本当の会話らしくない。何度読むのをやめようと思ったことか。特にハムレットが、留学に際して王が諸注意をするが、日本人の父親が東京の学校で勉強することになった息子にくどくど注意するのとまったく同じ会話が登場するが、そもそも話の舞台はデンマークだ。留学に際しての諸注意も文化的に違うはず。日本の国内で起こっている話を読んでいるみたいだ。 3. 太宰は、「カチカチ山」にしろ、「女の決闘」にしろ、二番煎じだ。原典の話が亡霊のようにつきまとうから、読者は白紙の状態で読めない。これが最大の欠点となる。太宰は自分からプロットを創作することができなくて、他人の話をパクリ、自分の内面の感情をそこで吐き出している。「走れメロス」もギリシャ神話のパクリだ。「女生徒」は有明淑子の日記の文章を並び替えただけ。

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